入鹿の首塚

飛鳥板葺宮の大極殿で討ちとられた入鹿の首をこの地に埋めたとも、鎌足を追って首があちこちへ飛びまわったための供養塔とも言われています。

後ろに入鹿の邸宅があった甘樫丘が見えます。

橘寺(たちばなでら)

西暦572年に聖徳太子がこの地で誕生し、推古天皇の命により太子がこの橘寺を建立しました。(聖徳太子が建立した七大寺の一つです)

太子は仏法を深く信仰し、自ら仏典の講義をし注釈を加えたのが三経義疏と言われ、現在も保存されているそうです。

下は、人の心の善悪二相を表した「二面石」。


藤原鎌足生誕地

藤原鎌足は西暦 614年(推古22年)大和国高市郡藤原(現小原の里)に誕生したと言われています。

鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)を助け、大化改新を推進した功績により、「大織冠」という最上位の冠位を与えられ、その後藤原氏の祖となりました。

血縁集団を表す姓の「伊藤」「加藤」「佐藤」....など藤のつくものはこの藤原氏の「藤」がその源という話を聞いた記憶があります。

藤原鎌足産湯の井戸

藤原鎌足の産湯の井戸です。


大伴夫人(おおともぶにん)の墓

鎌足は、父中臣連御食子(なかとみのむらじみ)と母、大伴夫人の長男として誕生しました。その母の墓が鎌足生誕の地のすぐ近くにあります。

中臣氏は、代々朝廷の神祗祭祀を職業としてきた氏族で、鎌足の血筋は良かったようです。

伝板蓋宮(いたぶきのみや)跡

推古天皇から持統天皇までの100年間に多くの天皇の宮が飛鳥地方に造営されたのですが、その遺跡はどれも確認されておりません。

皇極天皇(天智・天武天皇の母)が造営した宮がこの辺りにあったという伝承に基づき発掘されたのがこれ。ただ、二層になっており、出土品から上層は天武天皇の浄御原宮、下層が板蓋宮の可能性が強いとのこと。

ここが、その板蓋宮跡であれば大化改新の舞台となった場所で、この大極殿で蘇我入鹿は討ち取られました。

なお、宮殿の屋根を茅ではなく、板葺きにしたためこの名がつきました。

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